熊野に里帰りした「花祭」に参加して思ったことー次の世代に残したいものの本質

「テーホヘ テホヘ」という掛け声がいまだに頭から離れない・・・

こんにちは、まさかつです!

 

今回は先週参加したとあるお祭りのお話をすこし!

熊野にルーツのあるお祭りの里帰り

12月8日(日)熊野本宮大社の旧社地、大斎原で「花祭」というお祭りが行われました。

 

このお祭りは愛知県の東栄町というまちで古くから行われているお祭りで、東栄町内の各地区で行われており、花祭WEBサイトも情報が充実していて、これによると各地区によってさまざまに特徴がある様子!!

国の重要無形民俗文化財にも指定されています!

その中でも「月」という地区の花祭りがこの度熊野を訪れ、熊野本宮大社に祭りを奉納していってくれました。

 

では、なぜ愛知県からわざわざそのようなお祭りがやってきたのか?

実はこのお祭り、そのルーツが熊野修験道にあるらしいのです!

以下、花祭WEBサイトから引用

花祭に強い影響を与えたのは、吉野・熊野の修験道ですが、修験道自体は平安末期から鎌倉初期に最盛期を迎え、鎌倉末期には地方に定着するようになります。

彼ら修験者が求めた修業の場所は道険しく人跡を絶つほどの深山幽谷の地であり、奥三河の山河はその理想郷であったようです。ある一団は東から天竜川をさかのぼり、またある一団は西から峰伝いにこの地へ入っていきました。修験道は庶民の間にも理解され、次第に根を張っていったのです。こうした修験者たちから花祭はもたらされたといわれています。

花祭の持つ宗教性が、鎌倉・室町時代に活躍した修験者たちの宗教性と相通ずることから、祭りがはじまった時期を、修験者たちが遊行・布教を行った約700年前と推定しています。

 

 

このことに目を付けた地元の有志の方々が「熊野でテホヘ実行員会」を結成し、月の花祭が熊野で開催できたというわけです!

冒頭に書きましたが、「テホヘ」という掛け声が特徴的で忘れられない感じです。

(さらっと書きましたが、詳細な事情はよく知りません。きっととてつもなく苦労されたはずです。実行委員の皆様、すばらしいお祭りを熊野で体験させていただきありがとうございました。)

 

とにかく、このお祭り、参加してみて僕たち自身がすごく楽しむことができ、すばらしかったのですが、参加しながら少し考えたことについて書いてみたくなったのが今回の本題。話のダシみたくつかってしまって申し訳ありません。

 

では引き続き

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花祭に参加しながら考えたこと

愛知県で行われている花祭の本来の流れ通りに祭りを行うと丸一日中かかるそうです!夜通しです!まさに奇祭

 

お祭りの詳しい内容について書き始めるとすごく長くなってしまいそうなので割愛させていただきますが、

その地区の小さい子どもから大人までが舞を納めたり、さまざまな儀式に登場するそうです。まさに地域総動員

 

熊野公演では、非常に短縮した内容にアレンジしてくれていました。

僕が感じたこの祭りの特徴は圧倒的な参加型であるということ!

 

舞や儀式に参加する人だけでなく、その周りを囲み、ガヤを入れたりする人たちのことを「せいと衆」と呼び、お祭りを盛り上げる重要な存在として位置付けています。

周りでみている人はただの見物客ではなく、せいと衆としてしっかり参加しないといけないのです!

 

この仕組みがすごくおもしろかった!僕も当日、せいと衆として活躍するように仰せつかっていたのですが、何せ初めてのこと。所作やマナーもわからず、くすぶってしまいます。

 

そこへ、おそらく「月」の方がせいと衆として輪の中に登場!あれよあれよと「場」を盛り上げ一瞬にしてそれまで見物客だった周囲の人たちを参加者に変えてしまいました。

 

僕も例外なくその波に乗せられ、いつの間にか最前線。(笑)

 

月とは違う地区ですが、クライマックスの湯ばやしはこんな様子!長いですが、最後の5分くらいだけでも見てもらえれば雰囲気が分かります。

 

「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿保なら踊らにゃそんそん」という合言葉で有名なお祭りがありますが、花祭はそんなの関係ありません。

周りでみていてガヤを入れる人も立派な参加者!その場にいるすべての人でその場の雰囲気を作っていく、なんだかいい感じの祭りでした。

 

東栄町にはそこに子どもから大人までみんな参加する。夜通しみんなで踊り、歌いながら五穀豊穣、無病息災などを祈る。

年を取るにつれて、舞が変ったり、役割が変ったりしながら、祭りと共に地域の中で成長していく。

そんなすばらしいイベントを古くから現在にいたるまで残してきたことにすごく価値があると思ったんです。

 

ほんとうに残したいものとは。

どうしてお祭りひとつでそんなことを考えていたのか。

実はその直前に、今月登壇予定の田辺市内で開催している連続講座に潜入し、話の内容や雰囲気を偵察にいっていました。

 

その時の登壇者は空き家の再活用などで活躍されている方。現在も和歌山県内で重要文化財を活用したまちづくりなどもされているようでした。

 

そんな講師の先生に参加者からきびしい質問が。

 

「重要文化財をどのように活用し、残していくかという中で、地元の人からよそ者がきてあれこれとしやがって・・みたいな反応はありませんか?どのように地域と関わっていますか?」

というような趣旨の質問。詳しい文言は忘れました。

 

ある地域に外から入るときにきっとよく起きる状況かと思います。

 

地元住民の意とは裏腹に、地域の文化財が活用されたり、また、活用する側も「こうした方がいいのに」と思いながらなかなか話がうまくすすまなかったり・・

 

「俺らはこの文化財をこのまんま残したいだけなんや。あれこれといらんことしてくれるな」

 

と、そんな人の声が聞こえてきそうな質問でした。登壇者は非常に丁寧にこの質問に応えていましたが、私はどうもこの質問それ自体になにか引っかかるものがありました。

 

地域(まち)というものは多かれ少なかれ日々カタチを変えながら今に至っているものばかり。

 

古いものも新しいものもそこには混在しているはずですが、目に見えて古いものは財として重宝され、残していこうとされます。

「古い」は今から作ろうとしても作れませんからね。

 

その中には、田舎にある立派なお屋敷の文化財もあれば、花祭のような無形文化財もあります。

 

しかし

人々がその地域にとって大切だとおもい残してきたそれらの財が、今後どのようにしてその地域の中で役割を果たしていくのかを考えないことには単にモノやコトがカタチだけ残っていても仕方ないのではないでしょうか。

 

そのモノやコトがあることで生じる地域の中でのコミュニケーションやつながり、それこそが地域の財を介して残すべきものではないかと、その一日で二つのイベントを通して考えさせられたわけです。

 

単にカタチだけが残った古い家やお祭りの踊りにはそれほど未来に対する価値はなく

それらを通じて人々がつながってきたその事実をこの先にも残していってもらいたい。僕もそのようなことに注力していきたいと。

 

「花祭」も花祭保存会という組織があり、今回はそこに所属するみなさまがお越しくださいました。

 

この財は地域の中で重要なコミュニケーションを生み出し、人を育て、また、その他の地域とつながっていくポテンシャルを秘めている。

たしかにこれは残したいなぁ。

 

非常にすてきな体験についつい書きすぎてしまいました。

例外なく長くなってしまったこの記事を最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。

ではまた次回!




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